山辺知子さん≪インタビュー≫

「労働許可証の獲得は、自分の中の小さな勝利だった」

今回インタビューをお願いした山辺さんは、実は筆者の中学・高校時代の同窓生。

中高6年間を通して、一度もクラスが一緒になったことがなく、山辺さんはテニス部で筆者はバレー部だったので、当時は全く接点がありませんでした。

山辺さんは非常に優秀な頭脳の持ち主であるうえにテニス部でもスター選手だったので、それはそれはキラキラ輝いていらっしゃって、私ごときがお近づきになろうなんて恐れ多くてできないと思っていたほど。

たぶんまともに言葉を交わしたことさえなかったと思います。

そんな我々が今こうして繋がったのは、今年(2023年)山辺さんがご家族で筆者の住む北バスクを旅行することになり、SNSを通じて「会おうよ!」と声をかけてきてくれたのがきっかけでした。

もともとは「国際結婚」以外の理由でスペインに来て、あるいは「国際結婚」してスペインに来たけれど、何らかの理由でシングルになってしまって、でもスペインで立派に生き抜いている方たちのお話を伺う目的で企画したコーナーなのですが、山辺さんは国際結婚組ですし、スペインでなくお隣のフランスで暮らしています。

でも社会人になってからフランスに来て就職し、ずっとお仕事を続け、しまいには会社まで立ち上げたという点できっと面白いお話がいっぱいうかがえると思い、こうしてインタビューをお願いした次第です。


―では、まずは大学を卒業してからフランスに渡るまでの経緯をざっと教えてもらえますか?

山辺知子さん(以下 T. Y.)大学を出て日本で大手メディアに就職して、地方で仕事をしていました。だけど失恋してしまって(笑)。その痛手からなかなか立ち直れない 中、ある種逃げるような感じでアメリカの大学院に留学しました。その学生街のシェアハウスで隣の部屋にいたのが現在の夫で、たまたまフランス人でした。彼と知り合ったことがきっかけで、大学院卒業後、旅行で数日滞在した以外ほとんど未知だった フランスに来てしまったのが、私にとって第1回目のフランス生活でした。

―その段階で、結婚はしてたいたんですか?

T. Y.  いえいえ、全然。ご縁があったことだし、じゃあちょっと彼の故郷の国に行ってみようかと、熱に浮かされて来たはいいけど、まず言葉が通じないということにショックを受けました。それで、語学学校の夏期集中講座に入って フランス語を特訓し ながら色々なところに履歴書を送ってみたのですが、全然ダメで。そこで、2年間頑張って、大学院を終えたんだし、自分に半年チャンスをやろうって決めたんです。半年、フランス語をもうちょっと頑張りながら腰を据えて 就職活動してみようって。と いうわけで日本にいったん帰って学生ビザを取って、ソルボンヌ大学でビジネスフランス語を学ぶことにしました。

―いきなりすごいところに飛び込まれましたね。難しかったですか?

T. Y.  ソルボンヌといっても、語学と文化を学ぶ外国人向けのコースでした。なぜそ のコースを選んだかというと、正直一番安かったから。アメリカの大学院がものすごく高くて、収入もないし、貯金がどんどん食い尽くされていく状況だったから、この 「安い」ということはとても大事で、ソルボンヌのコースに1学期間、確か4ヶ月間登録しました。これ、当時「学生ビザ」がもらえる最短期間だったと思うんですが、 ビザなし滞在ができる3か月と合わせて半年カバーできるな、と。

その間は、午前中はクラスでビジネスフランス語の勉強、午後はまた一生懸命、就 職活動、みたいな生活でしたね。労働ビザがないからほとんどが門前払いなのだけれど、ひたすら履歴書を送り続けてたら、ある田舎の町の会社が、労働ビザを取ってくれるって言ってくれたんです。それで、その町に一人で引越すことにしました。

―労働ビザって、雇う側にしたら手続に労力がいることなので、取ってあげるって言われるだけですごいことだと私は思ってるんですけど。

T. Y.  どうなんでしょう。当時つきあっていた今の夫がパリにいたから、パリで仕事が見つかればベストだったんだけど、パリは激戦区で、労働許可証がないとよっぽどの専門家でない限りそもそも土俵にも上がれない。で、私に連絡をくれたのは、アルプスに近い田舎の町にある会社でした。パリから新幹線で3時間ぐらいのところにありました。

―そんなに遠いところだったとは!日本の企業だったんですか?

T. Y.  いえいえ、フランスの企業でした。カントリーマネジャーというと聞こえがいいかもしれないけれど、技術営業っていうのかな?集積回路に使われる高度な半導体部品を日本の企業に売り込むということをやりました。今思うと、たかが半年ぐらい勉強したフランス語なんて全然役に立たないんですよね、実は。だから、入社試験の面接もぜんぶ英語でやってもらったぐらいでした。

―アメリカの大学院では何を専攻されていたんですか?

T. Y.  経営修士…いわゆるMBAです。

―英語ってやっぱり武器になりますね。英語で面接を受けて、しっかりとお仕事をゲットされて。

T. Y.  面接の段階では「英語と日本語ができればいいですよ」と言われていたから、 結構気楽に入社したんです。ところが、当然ながら社内ではみんなフランス語で喋ってた。だからその企業に入ってからでしたね、フランス語が上手くなったのは。上手くなったというか、話せないとサバイバルできなかった。

―まだよくわからない言語でコミュニケーションせざるを得ない状況に置かれたわけですね。最初はさぞかし大変だったでしょう?

T. Y.  そう。メールが来ても、フランス語だとスルーしてたんです。そしたら「なんで今日会議に来なかったの?」とか言われて、何の会議のことだかも分からず「私が フランス語のメール読んでないと知ってますよね?」って言ったら「ああそうだっけ、忘れてた」と返されて。「でも次から来て」とミーティングに参加させられるこ とになって、その後はなし崩し的にフランス語化されていきました。

一番辛いのは、昼ご飯でしたね。田舎の工業団地にあるスタートアップ企業だったので、従業員が100人ぐらいでみんな仲良しで、まあ5人とか10人とか まとまって 食堂に行くんだけど、自分の席で独りで食べますとは言いにくいし、社員食堂の食券 もあるから仕方なく行くでしょう?そうすると、みんなが一緒に楽しそうにお喋りし ながらご飯食べてるところで、独りで黙々と食べることになる。一言二言声かけてく れる同僚ももちろんいるんだけど、同僚の英語と私のフランス語が同じレベルだか ら、会話が長続きしないの。アルプスの山を見上げて「私なんで独りでここにいるん だろう?」とか思いながら「山は綺麗だなー」なんて。

―そういう経験は私にもあります。お仕事自体は面白かったんですか?

T. Y.  日本やアメリカにいた友人たちが「営業の仕事は必ず将来役立つ」って言って応援してくれたし、定期的な日本出張というおまけもあったので、割り切ってやっていました。それなりの成果も出せたと思います。でも、パリと田舎の町を新幹線で3時間かけて毎週行ったり来たりする遠距離移動にすごく疲れちゃって、労働許可証ももらったことだしって、一年もしないうちに辞めました。

私ね、てっきり、労働許可証には「○○県で働くことを許可する」みたいに書いてあるんだと思ってたんです。でもよく見たら、「フランス全土で有効」って書いてあった。で、なにこれ?もう無敵じゃん?!と驚きました。これでパリに帰っても仕事が見つかると思って、わりとすぐ辞職してしまったわけです。今考えるとアホ過ぎるけど。

ところが、パリに帰ってきて今度こそ仕事が見つかるだろうと思ったのに、現実は 甘くなくて、また 履歴書や手紙を書きながら職探しの毎日に逆戻りでした。とはいえ、フランスっていい国で、お給料は低いんだけど半年以上勤めるともう失業保険が もらえちゃうのね。社会主義国だから。

―スペインも似たような感じです。ただし、半年ではなくて1年以上勤めていることが条件ですけれど。

T. Y.  で、失業保険をもらいながら仕事を探してても見つからない。「料理でもやるか」って毎日料理本見ながら真面目に作ってみたり「ワイン飲むか」ってワイン飲ん でみたりしてたんですけど、暗くて寒くて友達もいなくて、夫に、「こんな国もういや!」って切れたりして。そしたら夫が「日本なら見つかると思う?」って訊いてきたので「絶対見つかる」って言ったら「じゃあ日本に行こうか」という流れになって 二人で日本に行ったんです。

―そのときも、まだ結婚はされていなかった…

T. Y.  あ、結婚してました。労働ビザもらってから数か月後にしたんだった。

―山辺さんの場合、フランスに行ったのは国際結婚が理由ではなかったんですね。

T. Y. 「結婚」が理由でフランスに行ったわけではないけれど、フランス人の彼がいなかったら行ってなかったから、結果としては「国際結婚のため」と言えるかしらね。

―でも、ちゃんと自力で労働許可証をゲットしているから。

T. Y.  確かにあれは、自分の中の小さな勝利だったかもしれません。自分のビザ、自分の仕事、自分の収入、ということには結構こだわっていました。何かあったときに自立してないと困るじゃない。

―「この許可証は私が勝ち取ったんだ」って気持ち、本当によくわかります! 話を元に戻しますと、日本に戻られて仕事をゲットできたんですね?

T. Y.  できました。アメリカ系のコンサルティング会社で、苦しいこともあったけれど、 本当によくしていただいて、結局 その会社に 10 年近くいることになりました。 最初の7年ぐらいが日本で、後の 3 年ぐらいがフランス。東京オフィスからパリオフィスに転勤扱いで移してくれたんです。

―それはやはり、旦那様のほうで祖国が恋しくなっちゃったからですか?

T. Y.  そうそう、 6 年過ぎた頃からだんだんと。日本では、夫が会社の中でたった一人の外国人社員だったので、そろそろ帰りたいなーって言い出した。やっぱりね、外国人として別の国で働くって大変なことだから。でも、その経験を彼がしてくれたのは良かったです。フランスで私が苦労していると、いろいろ慰めてくれるというか、 共感してくれるのは、彼が日本で同じような経験をしたからこそだと思います。

―パートナーが、そういう人で本当に良かったですね。

T. Y.  本当に!でも、パリで再チャレンジして3年ぐらい勤めたところで、会社がまさかの倒産。アメリカ系の会社で、パリのオフィスは30人ぐらい、しかもそのうち半分ぐらい外国人で、フランス語が流暢でない人も私だけではなかったから快適だったんですが、それが倒産して、フランス全土だけで 7000 人ぐらい社員がいて、そのうち大部分がフランス人っていう会社に吸収合併されることになってしまった。そういう規模のフランス人ばかりのところに行ける気もしなかったし、行きたくもなかった けど、希望を聞かれるまでもなく私のいた部署がスクラップされて(笑)。部署ごと5人全員さよならすることになりました。とはいえ、フランスはさっきも言ったように社会主義国だから、 手厚い失業保険でしばらくは暮らしていけるんですよ。その会社には、結局日仏通算で10年ぐらい勤めたし、会社都合でしたから、2年間は失業保険が保証されていました。

そんな状況でし ばらくゆっくりしようかな、などと思っていたんだけれど、その時たまたま今の仕事 の募集広告が、日本語情報誌で目に留まったんです。そのたった三行の求人広告の中に自分に響く単語がいくつもあって。NGO (日本だと一般社団法人) の仕事で、応募してみたら受かった。はっきり言って、提示されたお給料は失業保険の方が高いぐらいの感じだったのですが、失業保険をもらいながらまた毎日履歴書を送り続ける生活よりも、面白そうだからやってみよう、お給料下がってもいいや、と思ったんです。

―いつ頃のお話ですか?

T. Y.  2013年、10年前ですね。

―ネットで、気候変動サミットで山辺さんが壇上でスピーチされている写真を拝見しました。放電する充電器についてだったかしら?

T. Y.  そうそう。充電も放電もできる電気自動車の充電器の話です。

―記事を読んだら、電気自動車の充電システムって、世界でいろいろ規格が異なっていて、今世界各国でどのシステムを受け入れるかというのを決めているところなんですって?

T. Y.  そう、規格戦争などとよく言われています。

―コンセントにしてもそうですけど、各国によって規格が違うって、一般の消費者からしたら不便なところもありますよね。山辺さんがなさっているのは、日本の電気自動車の充電システムを世界にアピールしていこうというお仕事と捉えていいのかしら?

T. Y.  私が欧州レップ(代表)をしている充電規格では、世界に550社ぐらい会員の企業や団体があって、そのうち170社ぐらいがヨーロッパの企業なんです。なので、欧州地区の会員企業との連絡や関係づくりと、この充電規格の PR をする、そういったことですね。

―そういう活動をされているお姿をネットで拝見して、すごいなぁと思いました。会社を立ち上げられたということなんですけど、どういういきさつがあったんですか?

T. Y.  最初は、フランスの小さいコンサルティング会社の社員として、プロジェクト・マネージャーをしていたんですが、2 年間勤めたところで、お客さんを連れて独立しました。

―では、例の三行広告を出したのは、そのコンサルティング会社だったんですね?

T. Y.  はい。その会社の中で、今のお客様の事業を担当していたんだけど、雇われマネージャーをやって半年ぐらいしたら、社長が「 自分は別の企業に行くからあとはよろしく」って辞めてしまって。社長がいなくなっても別に私がお客さんに提供するサービスは変わらないだろうと思って、そのまま続けていたんですけれど、実際には 色々あって…。

そうしたら、お客様が「今のままでやりづらいんだったら独立してくれていいですよ」と言ってくれたので、会社を辞めて独立することにしました。その際「ちゃんと会社組織にすることが条件です。」と言われて。だから、自分が会社作ろうと事業を起こしたのではなく、語弊があるかもしれませんが、仕方なく会社組織にした、というのがいきさつです。

―なるほど、そういうことだったんですね。

T. Y.  その日本のNGOをそのままこっちでもNGOとして登記するのがベストだったんですが、日本のNGOをパリで登記しようとすると手続が厳しく、諦めまし た。今は、私の事業会社で委託を受けるという形でマネージしてます。

ー会社を立ち上げた後はスムーズに行ったんですか?前回お会いした時、従業員の管理で苦労された話をしていましたよね。

T. Y.  そう、人を雇うのが一番難しい。ビザなしで就職活動をしていた自分の姿を思い出しますが、いざ雇う側になってみれば、労働ビザない人は最初から対象外。いろんな人を雇ってみましたよ。最初はポーランド人、その後日本人、ルーマニア人。あ とはアメリカ人、イタリア人、ハンガリー人、フランス人といったインターンも色々入れてみたり。

―今後の展望について、何か頭の中に計画がありますか?

T. Y.  そうねえ…もともとその自分でこうビジョンを持ってこういう会社を作りたいと思って作った会社じゃないでしょう?お客さんが事業で目指すところを実現させるというミッションを達成するための、ツールとしての会社だったので、そういう意味では会社の今後の方向性をちゃんと考えなきゃなってずっと思ってきました。

さっきPRってザクっと言いましたが、これまでは、ヨーロッパの法律を作る仕組み の中で、お客さんに不利になるような法律ができないように監視して、法律を作る人たちに働きかけながら「こういう事情でこんな風に法律に書かれると困ってしまいますので、こういう風にしてもらえませんか」といったお願いをするという、いわゆるロビー活動の仕事がメインだったんですね。今後は、欧州の立法プロセスにおけるロビー活動のノウハウを活かして、できれば、 ロビイストを雇ったり弁護士事務所と契約したりとかに手が回らないような中小企業さんや、大企業でも特にそういうところを今までカバーしてこなかったところを対象に、ヨーロッパでの事業が不利にならないようなお手伝いができればいいなと…そんな風に思っています。

今まで走りながらやってきて、きちんと座って考える暇がなかったので「こういうお客さんに対して、こういうサービスを届けるために、こういうアプローチしなきゃいけない」という事業戦略を組み立てる時間があるといいなと思ってます。

あと、もうひとつ、ヨーロッパあるいはフランスで頑張って働いている、あるいは暮らしている日本人女子っていっぱいいますよね。私が今まで一生懸命、職探したこととか、探したけど見つからなかったこととか、労働ビザを取得した後もそのビザを更新するに苦労したこととか、フランスの行政と闘いながらやってきた様々なことが、 そんな人たちの参考になれば、何らかのお手伝いができたらいいな、と思っています。でも「夫のパワハラにあって困っている」とか「思ったような仕事が見つからな くて鬱になった」とか「知らない土地で子育てに困っている」とかいろいろなケースがあるだろうし、じゃあその人たちを手伝うには、どうすればいいのか?どのような 資格があれば何ができるのか?といった深い考察やアクションにはまだ至っていません。そもそも手伝いたいなど気軽に言うこと自体がおこがましいかもしれないし。

―具体的なアクションに落とし込むのは大変よね。本当に考える時間が取れるようになったらでいいのでは? 今はとりあえず、走り続けてください。

さてここで、私たちに共通するテーマ…年金の話に触れておきたいと思います。これから日本に帰る選択肢があるのかないのかという点で、山辺さんは旦那様がフランス人ということで、日本に帰るという選択肢は今のところはないのかなと思います。で、このままフランスで定年を迎えて年金が支給されますってなるじゃないですか…フランスは何歳でリタイアなんでしたっけ?この間すごい論争になっていましたけど。

T. Y.  この間の年金改革で、積み立て期間が40年(160四半期)から漸次43年に上がることになって、最低の受給開始年齢が62歳 から64歳に引き上げられることになりました。

―43年働けば満額もらえるということですね?

T. Y.  そうです。私はフランスで働き始めたのが遅いから、満額になるには全然足りない。日本で働いていた期間も15年程度だから、多分どっちもほとんどもらえないっていう人じゃないかと。これから制度がどう変わるかわかりませんが、いい方向には 転ばないだろうなぁと思います。ため息ですね。

―スペインのリタイアは66歳で、今のところ37年と3か月働くと満額もらえることになっていますが、どちらももっと延びるかもですね…少子化が進んで、社会保障がどんどん破綻して。でも今のままだと仮定して66歳でリタイアすると、私も80パーセントしかもらえないなんです。

T. Y.  え?そうなの?

―ええ、働いてなかった時期があるんですよ。結婚して子供が生まれて、オーケストラ辞めちゃったから。「無謀なことをするな」と言う人もいたんですけど、その時は離婚なんて想定していなかったしね。オーケストラの在籍期間が10年、個人事業主になってから5~6年なので、あと12年働いても…37年にはぜんぜん届かない。

T. Y.  労働許可証はオーケストラが取ってくれたんですか?

―そうです。入団できたら労働許可証は我々が取ってあげますよっていうオーケストラだったので。

T. Y.  それまで王立音楽院大学で勉強してたなら学生ビザだものね。素晴らしいわね。で、今のビザは何?

―今はもう永住権が取れたから。まあカードの更新はしなきゃいけないんですけど、 更新さえしていけば、もう永久にスペインに住んでいいっていう許可なんです。

T. Y.  国籍じゃないよね?

―国籍じゃなくて。

T. Y.  私は今10年レジデントカードっていう、住民ビザみたいなものを持っています。10年ごとに更新ですが、投票はできないのよね。それ以外のことはできるんだけど。

―私も投票はできません。で、山辺さんは何歳でリタイアできるんですか?

T. Y.  何歳か調べてないんだけど…私、こっち来て働き始めたのが遅いでしょう。最初が30歳過ぎてからで、2回目の時にはもう40歳くらいになってたから。65歳まで働くとしても、まだあと10年以上ある。欲を言えばこれからは自分がやって嬉しいことを見つけたいわ。

―見つかりますよ、きっと。

最後に、海外…例えばフランスで暮らしたいと思っている若い人たち、あるいは40代50代でもチャンスがあったら暮らしたいと思ってる人たちに向けたメッセージあれば、ぜひお聞かせください。


T. Y.  そうねえ…なんだろう…難しいんだけど、「ハートが呼ぶことがあったらそっちに行ってみる」って言うのはどうかしら。仕事がなくてもビザがなくても、とりあえず行ってみる。行ってみて、やってダメだったらやり直すとか、戻るとかでいい。やっぱりダメだったって意気消沈するとか、甘かった自分を笑っちゃうとかあっても、やってみたっていうことで「よし、次!」とできる。やらなかったことを後悔するのはもったいないと思いますね。

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