石川桃絵さん≪インタビュー≫

「怒涛のような2年間で、人間としての深みが出ました」

石川桃絵さんは、渡西後、筆者が知る限り最短で労働許可を取得され、さまざまな経験を経てスペインの会社に就職、フランス人男性と結婚し、スペイン-フランス国境の街エンダヤに購入したお住まいから毎日、国境を越えて通勤していらっしゃいます。

日本人ならではの気配りにあふれる桃絵さんですが、思ったらすぐ行動し、駄目だったらすぐ次に進むところなどは、ご自分では気が付いていらっしゃらないかもしれないけれど、非常にスペイン人的。

全力をかけて守りたいという大切なものを手に入れて来たのは、失敗を失敗としてうけとめる素直さと、前進し続けることを厭わない強い心の持ち主だからでしょう。

インタビューの間、たおやかな物腰とふんわりとしたと外見からはとても想像できない、壮絶なサバイバルストーリーを笑いながら語る桃絵さん。

より良い未来を信じつつ、楽観的に今を生きる桃絵さんの物語に勇気づけられる人は多くいるはずです。

話が多岐にわたり、フランスとスペインの制度の違い、マイナンバー制度についての見解などにも及んでいますので、ぜひ最後までお読みください。

― スペインにいらっしゃる前のお話を少し聞かせていただけますか?

石川桃絵さん(以下 M.I.)絵を描くのが好きで美大に行きたかったのですが、その夢が叶わず、短大の国際教養科に進学しました。でも、元々勉強するのがあまり好きではなかったんですよね…国際教養科で、もっとやりたいことにフォーカスして学業に励んでいれば、違う人生を送っていたのかなとも思いますが、両親にのんびりゆったり育てられた私は、あの頃はのらりくらりと生きている感じでした。

そんな私が、ある時突然、何か違うことがしたいなと思ったんですね。当時お付き合いしていた彼氏が家柄もよく高スペックな人だったので、今のままの自分だと釣り合わないと思ったことがきっかけでした。その時点で、すでに短大を卒業して普通に就職していたのに、「どうしよう?じゃ、語学留学をして自分を磨こう!」といった簡単な思い付きで、1年だけカナダに行きました。

― 最初はスペインでなく、カナダへ。

M.I. そうです。カナダでは、海外に居るというだけで、日本とは全然違うんだなという気付きがあって、一気に視野が広がりました。そこから、色々なところを見てみたいう思いが芽生えて、カナダで知り合った友人の国であるブラジルに行ってみたり。


― カナダに滞在中に、見聞を広められたわけですね。

M.I. カナダから一旦帰国して、せっかく英語も少し上達したことだし…と、それを武器に自分を売り込み、派遣社員として英語のスキルが求められる仕事をいくつかさせつかさせてもらいました。カナダで知りあった友人にスペイン人がいたので、今度は彼女に会いに行こうと決めて、2年ぐらいかけて、また貯金して。で、その友人というのがサン・セバスティアンの出身だったんです。

― サン・セバスティアンにお友達に会いに来て…どうでした?

M.I. 素敵なところだな、という印象を受けました。ですから、帰国して「スペイン語をやろうかな?」と。実は、そんな風に考えるに至ったのは、例の彼氏と別れてしまったからなんです。彼に釣り合いたいと思って頑張ったけれど、両親の反対やら、いろいろあって結局駄目になってしまって…半ば自暴自棄で、ええい、こうなったら好きなことやってやれ!という気持ちで、2005年に再びサン・セバスティアンに舞い戻りました。

― その時には、もう永住しようと考えていらっしゃったんですか?

M.I. いえいえ、1年か2年だけのつもりでした。スペイン語はアルファベットの発音から始めるレベルでしたし、先ほども言った通り私は勉強が嫌いで、スペイン語しか喋れない環境に身を置かないと上達しないと自分でわかっていたから、最初、大学生が住む寮に入ったんです。修道女の方たちが経営している寮で、安くはありませんでしたが、安全で、周囲は若い大学生の女の子たちばかりでしたし、ご飯もちゃんと出てきましたしね。

― 食事付きというのは、ポイント高いですよね。

M.I. とはいえ、朝食はスペインあるあるで、毎日牛乳とマリービスケットだけ。修道女さんたちが作るだけあって、他も質素なメニューが多かったです。その寮には、1年近く住みました。

― その間ずっと、語学学校に通われていたんですか?

M.I. ずっとではなかったですね。4か月ぐらい。後は、とにかく実地体験というか、実際に使いながら覚えていった感じです。その頃、サン・セバスティアンの方と付き合い出して、二人の関係を長く続けたかったら仕事しないとな、と思ったんですよ。でも、そんなにすぐに仕事が見つかるわけもなく、日本語を教えたりとか、お小遣い稼ぎ程度のことしかできませんでした。それこそ、月に200ユーロぐらいの収入があればいいほうでしたね。

サン・セバスティアンに住み始めた直後。語学学校のクラスメイトたちと。


― まだ、居住カード(労働許可)も持っていらっしゃらなかったわけでしょう?

M.I. そうです。これではどうにもならないと困っていたら、彼の家族が助けてくれて…結局、彼のお祖母さんの世話係という名目で申請してくれたんです。実際に世話係として働くことはありませんでしたけれど。

―なるほど。ほかでも同じような話を聞いたことがあります。

M.I. 労働許可を取得して最初の1年は、許可を申請した職種でしか仕事ができない決まりでも、1年が経過すれば、ほかの仕事ができるようになるんですよね。

―世話係という枠で申請したのは、それが一番、労働許可を取得しやすかったからかしら。

M.I. まだその頃は規制が緩かったということもあります。それから5年後ぐらいに、その職に就くのが日本人でなければならない理由がないと許可が下りなくなったと聞きました。

―滑り込みセーフだったんですね。それにしても、スペインに来てわりとすぐ、居住カード(労働許可)を取得されていたことに驚きました。

M.I. ラッキーだったと思っています。

―以前、こちらから日本人の従業員を呼び寄せるお手伝いをしたことがあったのですが、就労ビザの申請が、もうそれはそれは煩雑で、まず、職安に行って「弊社はこれこれこういう求人をしています」というふうに、全国規模で公示するところから始めなければならない。そこでスペイン人の志願者が現れたら、そちらを優先して雇わなければならない決まりがあるからなんですけれど。

M.I. スペインは失業率が高いから…

―そう、それが理由です。とにかく、桃絵さんの行動の速さが功を奏して、勝ち取ることができたということよね。取得後1年が経過して、ご自分に合った仕事を探し始めたんですか?

M.I. はい。あちこちに履歴書を送りました。どこからも全く反応がなかったんですけれどね。たった1通、HOTEL LONDRES(サン・セバスティアンのコンチャ湾を望むホテル)から「採用できません」という返事があっただけで(笑)これではいけない、何かできないものかと思案していた時に、スペイン人の娘(こ)から「一緒にお店を開けてみない?」と誘われたんです。それが悲惨な経験の始まりだったわけなのですが。

―それについて、じっくりお話をお聞ききしたいと思っていました。その方とはどういう経緯で知り合ったの?

M.I. 当時こちらに住んでいた日本人の子から紹介されました。ちょうど私も仕事を探していたので、やってみようかという気になり、会って話をしてみたら、明るくて面倒見のよさそうな、結構感じの良い人だったんです。ここでは  Aさんとしておきます。Aさんに、非常によく出来たプロジェクトプランを見せられ、感心した私は、頭の中で夢を描き始めていました。

ところがね、実はほかにもう1人、共同経営者になるはずだった女の子がいて、その子がAさんと喧嘩して途中で抜けてしまったんですよ…その時点で何かおかしいなと気付けばよかったのに、私も必死だったから視野が狭まっていて、何も見えていたなかった。

―何の店だったんですか?開業なさったのはいつ?

M.I. 半年ほど準備をして開店したのが2007年。アクセサリーパーツや、そのパーツで作った作品を販売する店でした。でも一つ一つの単価がものすごく低いから、2人分の給料を払うだけの売り上げが立たなくて。

―お店があった場所は、確か私の住むイルンでしたよね?サン・セバスティアンより家賃が安かった?

M.I. いいえ、立地条件が良かったので、家賃は結構高かったですよ。ですから毎月、家賃を払うだけでどんどんマイナスになっていって、借金がかさんでいきました。私には車が1台買える額の貯金があったのですが、起業の際には、それには手を付けずに銀行から借り入れていたんですね。でも、会社の口座にお金が無くなると、Aさんに「売り上げが上がったら返すから」と言われて、自分の口座から直接、諸々の支払をするようになって。

―会社の口座を通さずに?

M.I. そうです、出所の分からないお金。まずいでしょう?もうこれはどう頑張っても駄目だと気が付き、半年が過ぎる前に Aさんに「私は手を引く」と伝えました。ところがその途端、Aさんの態度が豹変して、私を泥棒呼ばわりしたあげく、私が入れないようにお店の鍵も変えてしまって。


―それはひどいですね。

M.I. 一つ救いだったのは、私の労働許可の何かが条件を満たしていなかったせいで、共同経営者にはなれず、出資するだけの株主になっていたことでした。ですから、私が負った義務は、最初に銀行から借り入れた額の半分を返済することだけだったんですよ。Aさんはその後半年ぐらい独りで頑張ったものの、結局は閉業する羽目に追い込まれ…その時にもう一度連絡がきたので、会って、各々が返済すべき借金額についての話をしました。

― A さんに会ったのは、それが最後ですか?

M.I. それっきりです。実は私と同じエンダヤに住んでいるみたいなんですけれどね。思い込みの激しいところがある人だったとは思うのですが、当時は私のほうも自分の意見がなくて、言うべきことをはっきり言えていなかったから、その点についてはすごく後悔しています。

―それは、言葉の問題もあったと思いますか?

M.I. 少しあったかもしれません。こちらに来てまだ2年ぐらいで、それでも周囲から「頑張ってるね、よく喋れてるよ」と言われるようになって、いい気になっていたのかなとも思います。

―桃絵さんは、旦那様がフランス人で、私の住むイルンからすぐの、国境を越えたところにあるフランスのエンダヤにお住まいですよね。旦那様とはどうやって知り合ったんですか?

M.I. 初めて会ったのは、お店を乗っ取られた事件がある程度沈静してきた頃でした。友人に「イルンで日本の居合道をやっているグループがあるから、ちょっと見においでよ」と誘われて、気分転換のつもりで行ったところ、そのグループの中に夫がいたんです。

―桃絵さん、結構イルンと縁があるんですね(笑)

M.I. 当時は、お互いパートナーがいたので、しばらくの間は友達の間柄でした。でも、イルンの店のごたごたから来るストレスで、私は当時の彼とぎくしゃくしていて別れかけていたし、夫も夫でパートナーと色々問題があって、気が付いたら付き合っていたという感じです。

旦那様のゴティエと出会うきっかけとなった居合道のグループと撮った一枚。


―桃絵さんの現在のお勤め先は?

M.I. サン・セバスティアン郊外にある日系企業です。最初はイルンのお店もやりながら、午前中だけ4時間ほど働かせてもらっていました。もうお店に全然お金がない状態だったから、生活のためにそうせざるを得なかったんです。

―どのようないきさつで、雇ってもらえることになったの?

M.I.  日本人が集まるランチ会でたまたま、当時社長だった方と知り合って、私からお願いしたら「スペイン人の書いた字が読めるならいいよ、伝票整理ぐらいならやらせてあげる」と言ってくださって。

―午前中はサン・セバスティアン郊外にある会社に勤め、午後はイルンのお店で働くということをやっていらっしゃったんですね。

M.I.  実はもう一箇所、日本の翻訳会社の下請けをしている会社でも働いていたんですよ。スペイン人が経営していた会社で、それまで翻訳のコーディネーターをしていた日本人の方が辞めるというので、入れてもらいました。そこでの勤務は3時間だけでしたが、朝の5時から8時までという特殊な時間帯でした。日本の営業時間内に連絡を取り合わなくてはならない関係で、そのような時間帯に会社にいる必要があったんです。

―すごいスケジュールですね。移動はもちろん車で?

M.I. いいえ、電車で移動していました!朝の5時から3時間は翻訳のコーディネーターとして働いて、その後電車に揺られて今の会社に行って4時間事務の仕事をして、そこからまた電車でイルンまで来てお店で働く…という生活が半年~1年弱ほど続いたんですけれど、当時は睡眠時間が3時間ぐらいでしたね。

―ええ?!

M.I.  移動の電車の中で、よく意識を失っていました(笑)。今考えると、よくそんな生活ができていたなと思います。体も無理がきく年齢でしたし、とにかくお金が必要だったので。

―その頃もまだ、例の寮に住んでいらっしゃったんですか?

M.I. 寮で知り合った大学生の子たちと4人でアパートをシェアしていました。ボロボロのアパートで、すぐに湯沸かし器が壊れるので、真冬に水でシャワーを浴びたこともありましたっけ。暖房がなかったので、小さなヒーターをスーパーで買ってきて部屋に置いて、何とか寒さをしのいでいました。それでも寒くて、寝る直前にお風呂に入って靴下を二重履きしてすぐベッドに入らないと、眠れないんですよ。

―暖房なしに冬を過ごすのは、ちょっとキツイですよね。アパートにラジエーターは取り付けられていなかったの?

M.I. 付いてはいたんですけれど、みんな貧乏学生だったから、節約のために誰もスイッチを入れないんです。彼女たちの経済事情がわかっていた手前、勝手に点けるわけにもいかなくて。あとね、木製クローゼットが朽ちかけていたせいで、そこらじゅうで蛾が舞っていました。「イガ」と呼ばれる衣服に付く小さい蛾です。それまでは蛾が大の苦手だったのに、住み始めてしばらくしたら、平気な顔して両手でパチンと蛾を叩いている自分を見て、人間てどんな環境にでも慣れるものなんだなと思いましたね(笑)あのアパート暮らしは、すごくいい経験になりました。

現地の大学生とシェアしていたアパートで。毎日の睡眠時間が3時間ぐらいだった頃。


―私も若かった頃は、そんな感じの暮らしをしていたなあ。蛾と共存したことはなかったけれど(笑)

M.I. その時すでに32歳ぐらいでしたから、そこまで若くはなかったですよ、私。

―いえいえ、32歳なんて今の私の年齢と比べれば十分若いです。そのアパートには、どのぐらいの期間住んでいたの?

M.I.  1年半ぐらいです。会社の経営に失敗し、借金を抱えていた私を見て哀れに思ったんでしょうね、その頃もうお付き合いを始めていた夫が「一緒に住もうか」と言ってくれたので、少ない荷物を彼の車に詰め込んで引越しました。

―旦那様の住んでいた家が、エンダヤにあったということですね。

M.I.  はい。小さなアパートで、ご両親が避暑用に購入したものを使わせてもらっていたという経緯で、私も家賃を払う必要がなくなったので、とにかく借金の返済に集中しようと頑張ることができたんです。あの頃は、ソーシャルワーカーである夫が、毎朝5時にサン・セバスティアンのオフィスまで送ってくれて、本当に助かりましたね。でも、彼自身、責任が重い大変な仕事をしていますから、例えば知り合った頃は、仕事も含めていろいろ精神的につらい時期だったみたいで、そんな繊細な夫を見て「優しい人だな」と思ったところからお付き合いに至ったという感じです。

―ご結婚されたのは?

M.I.  2009年11月でした。一緒に暮らし始めてから、わりとすぐに。

―私が桃絵さんに初めてお会いしたのは、もしかしたら、まだ旦那様と知り合う前だったかも。初対面でいきなり「石川桃絵です!イルンで開いたお店を共同経営者に乗っ取られて、借金を○○円背負いました!!」と言われて、びっくり仰天したのを覚えています。

M.I. 私、そんなこと言いました? アホか、お前は!?って感じですね(笑)

―元気な人だなあ、と思いました。だってスペインに来て何年も経たないのに、しかも未経験で商売を始めようなんて人、いませんもの。結果的には失敗だったかもしれないけれど、すごいことですよ。

M.I. 日本で両親に守られてぬくぬくと過ごしていたのにね。授業料は高くつきましたが、文化の違いも含めて、色々学ばせてもらったと思っています。あの怒涛のような2年間で、人間としての深みも出ましたし。

―文化の違いと言えば、桃絵さん、今のお勤め先ではスペイン人と一緒に働いていらっしゃるのよね?

M.I. そうです。いくら日本人としての考え方が捨てられないからといって、職場ではスペイン人の考え方・やり方に合わせないと浮いてしまう。日本人である部分もキープしつつスペイン人に交じって働いていますが、その塩梅が難しいです。最近は慣れましたけれど。

―最初は事務のお仕事だったとおっしゃいましたが、その後、他のことも任されるようになっていったんですか?

M.I. 初めはパートみたいな感じで気楽でしたが、私が妊娠して出産するタイミングで正社員にしてもらえました。当時はまだ、日本人が社長で「お子さんもできたことだし、きちんとした雇用契約がないと不安でしょうから」と言って、スペイン人側と交渉して下さったんです。スペインにある会社なので、いくら社長が日本人でも、すぐに私を正社員にするわけにはいかなかったんですよ。私にスペイン人と同等の能力があることを、実績をもって示さなければなりませんでした。

―その時点で何年勤続されていたんですか?

M.I.  5年だったと思います。契約は毎年更新される形でした。

―1年1年、きちんと仕事をこなして、5年間積み上げてきたから、それを実績としてスペイン人側に差し出すことができて「この人だったら認めます」ということになったわけですね。正社員になれて、感無量でしたか?

M.I.  嬉しかったですよ。「やったー!!」という気持ちでした。当時の社長には感謝してもしきれません。


―産休も堂々ととれますしね。

M.I.  契約社員だったとしても、そういった権利は全部保証されていました。ただ、契約更新が1年ごとでしたから、いつ辞めさせられるか分からないといった不安定な状況ではありましたね。

―更新時期が来るたびに、ドキドキしていました?

M.I. 更新されなくても何とかなるかななんて、お気楽な考え方をするところは相変わらずでした。まあ、ひどい状況には慣れていたので。

―慣れないでください、そんなことに(笑)

M.I. でも、結婚して子供が出来て、家まで買ってしまって、色々と責任が生じてくると、今持っているものは絶対に手ばなしたくないと思うようになりました。がっしり掴んでおかないといけないなって。

―結局、エンダヤにお家を買われたわけですが、旦那様がフランス人だからという理由以外にも、フランス側に住むメリットは何かありますか?

M.I. 夫の勤務地のバイヨンヌと、私の勤務先のちょうど中間地点なんですよ。コロナを境に、夫は週2~3日テレワークでよくなったので、だいぶ楽になったみたいですね。上司と交渉して手に入れた条件なので、上司が変わったら分からないというところはありますが、私が月~金でフルタイムで働いているから、夫がある程度家にいてくれてよかったなと。

―桃絵さんの場合、お勤め先はスペイン、お住まいはフランスということで、税金等はどうされているんですか?

M.I. 決まりとして、税金というのは住んでいる場所で払うものなので、私の場合、スペインのギプスコア県(県都:サン・セバスティアン)に税金免除の申請をしてフランスで払っています。ただし、社会保障と年金の支払い先はスペインなんですよ。

―そうなの?面白いですね。

M.I. 年金の話になりますが、なな子さんは日本で年金を払っています?

―払っていません。スペインでも満額もらえませんし、私の未来は真っ暗です(笑)

M.I. 不安はありますよね。私、今でも結構、色々なところが痛くてボロボロだから…パソコンの操作で手首を酷使しているし、あとは、工場内を歩くことも多くて、つま先に鉄板が入った安全靴を履いて、滑りやすい床の上を転ばないように変な歩き方をしているせいで腰を痛めてしまって。職業病だから仕方がないのですけれど。

―それは大変ですね。くれぐれもご自愛ください。マッサージに行ったりとか。

M.I. フランスはマッサージも保険が利くので、ちゃんと保険を通して行っています。

―フランスは、その辺がすごく手厚くカバーされている国みたいですね。

M.I. 私は社会保障はスペインで払っているのに、病院はフランスで行くんですよ。例えば歯医者とかマッサージとか、スペインでは自費じゃないですか。

―そうですね。2つとも保険は利きません。

M.I. フランスでは保険が利くんです。もちろん、セラミックを入れたりとか、そういったことは別ですけれど、スペインでは自分で払わなければならないことも、フランスではその必要がない。でも使っているのはスペインの社会保障だなんて、グレーゾーンだと思いません?

―そうですね。でも、スペイン側もそれを知っているのでしょう?国境に近いし、これがパリとかだったら完全にアウトでしょうけれど。

M.I. そうなんです。国境から20キロ以内は「国境越え」というカテゴリーに入る。例えば、私は日本人でフランスに住んでいるので、本当ならスペインで仕事はできないらしいんですよ。スペインの居住カードがないわけですから。結婚当初、移民局に行ったら「居住カードがないなら、働けません」と言われましたし。でも、実際はできる。国境20キロ圏内は「国境越え労働者」の枠に入るからです。とはいえ、それもグレーなところがありそうですけれど。

―どうなんでしょう。枠があるなら合法という気もしますけれど。

M.I. スペインの移民局に行って労働許可証を取ればOKなのですが、毎年更新しなければならないから面倒くさいんですよね。しかも、全体的にどことなく曖昧で、移民局の人とて、私の置かれた状況を100パーセント明快に説明をできる人がいない。フランスに引越した段階で「働けません」と言われた時に、自分で頑張って調べて、EU(欧州連合)の法律に「ヨーロッバ人と結婚していれば、ヨーロッパ人と同じ権利がある」とあったので、「こう書いてあるんだけれど?」と、当時、移民局の局長だった方に話をしたら何とかしてくれたというのが実情です。

―偉い!桃絵さんが、役所の人に教えてあげたんですね(笑)

M.I. 本当に、結婚当初が一番大変でした。私はもう既にスペインで契約社員として働いていましたから、仕事は継続したいけれど居住地をフランスに変えます、となった時に、フランスの居住カードはどうするんですか?という話になって…誰かに「バイヨンヌのスペイン大使館に行きなさい」と言われて、行ったはいいけれど「あんた、スペイン人じゃないでしょ?だったら私たちには何もできないよ」と門前払いを食らいました。

途方に暮れていたら、今度は別の誰かから「スペインからフランスに住むところを変えたいなら、スペインにあるフランス大使館に行って、そこでビザを申請しなさい」と言われて「なるほど、もっともな話だ」と思って。で、わざわざマドリードのフランス大使館まで出向いて、そこでビザを申請して、ようやくフランスに住めることになりました。

―複雑すぎて、何と言ったらいいのか…

M.I. 私みたいなケースってないじゃないですか。フランスに住んでいて、毎日国境を越えてスペインに働きに行っている日本人(非ヨーロッパ人)。役所の人達も含めて、みんなパニックですよ。何それ?みたいな。でも、いったん「労働許可証さえ取ればいい」ということなったら、毎年、何の問題もなく更新できてしまうところが、スペインもグレーな国ですよね。

―「ああ、いつものやつね」みたいな感じで(笑)

M.I. でも最近、フランス人と結婚していてヨーロッパ人と同じ権利があるのなら、労働許可証も要らないのではないかと思うことがあるんです。

―私もね、そのお話を聞いて「労働許可証なんて要らないんじゃないの?」って思いましたよ。今度、移民専門の弁護士さんに訊いてみようと思います。

ところで、お嬢さんは今、何歳でしたっけ?

M.I. 日本で言う小学校6年生になりました。フランスは小学校が5年制で、中学が4年制なので、もう中学校に通っています。

―お嬢さんとの会話は、フランス語?

M.I. 日本語は全然ダメですね。日本語で話しかけると、多少は理解できているんでしょうけれども、絶対にフランス語で返されます。私もフランス語が完璧ではないので、お互いに意思疎通できないことがあって、私が一人でキーっとなっています…「わからないんだから、ゆっくり喋ってよ!」って。あまりにも会話が嚙み合わないと、スーッといなくなってしまうし。

―こっちは一生懸命に喋っているのにって思いますよね(笑)桃絵さんの場合、職場ではもちろんスペイン語を話されて、ご家庭ではフランス語でしょ?話していて、どちらが楽ですか?

M.I. 職場で一日中喋っていますから、基本的にスペイン語です。時間が遅いこともあって、家に帰っても大して喋ることがない。でも、娘が成長して、ダンスのコンクールなどに行くようになって、付き添いの母親同士集まってお手伝いをするというような時には、やはりフランス語で会話ができないと駄目ですよね。

サン・ジャン・デ・リュズの祭りで。お嬢さんの友人家族と共に、夜のビーチでサンドイッチパーティー。


―英語、スペイン語、フランス語が喋れるなんて、無敵じゃないですか。

M.I. どれも大したレベルではないです。それこそ、なな子さんのほうが、翻訳とか通訳とかやっていらして、すごいなあと思います。

―それはね、ハッタリで始めて、気が付いたらプロとしてやれるようになっていたというだけのことです。最近つくづく、さっさと行動したもん勝ちだなという風に思っていて。

M.I. でも、通訳は難しいですよ。日本の会社から人が来て私が通訳すると、スペイン人が言ったことを日本語にする段階で分量が10分の1になってしまうんです。自分では全部、理解できているのに。

―逐次通訳で、そのまま全部訳すのは無理なんです。桃絵さんの場合、会社のいろいろな仕組みはわかっていらっしゃるわけだし、製品やその取扱いについての正確な知識をお持ちなのだから、核心となる部分はちゃんと訳されていて、相手にきちんと伝わっていると思いますよ。

M.I.  先ほどの日本の年金に話を戻しますと、実は私、途中少し途切れた時期もありましたが、一応ずっと任意で最低額を払い続けていて、終りまで払うと6万円を少し超える額をもらえることになっているんです。大した金額ではないけれど。

―いいじゃないですか。もらえないより、少しでももらえた方が。

M.I.  最近、年金をマイナンバーに紐づけるという話が出てきていますよね。でも私たちのような海外在住の日本人はマイナンバーカードが持てないでしょう?年金をもらうには銀行口座も必要となってくるのに、口座の開設もマイナンバーがないとできないとなると、微々たる年金さえ、もらえるのさえ怪しくなってきたなあって。

―日本は戸籍制度だけで長年やってきた国だから、仕方がないところはあるのでしょうけれど、マイナンバー導入に関してはかなり混乱していますね。日本国民であるにもかかわらず、在外邦人がマイナンバーカードを持てないというのは、変な話だと思っています。

M.I.  住民票がないともらえないというのがね…戸籍があればもらえる、でいいと思うんですよ。

―スペイン人がヨーロッパ以外の国に住むことになって住民票を抜いても、NIFナンバー(スペイン国民のIDナンバー)を国に返上しなければならないなんでことはありません。スペイン国民なのだから当然なんですけれども。

M.I. 外国人であっても、IDナンバーは一度取得したら永久に変わらないから、何らかの理由でIDカードを持たない期間があっても、またスペインに住むとなれば、同じ番号でカードを再発行してもらえますし。

―このテーマについて息子たちと話をしたら、日本にこれまでIDカードがなかったことに驚愕されました。そして、海外在住であるがゆえにIDナンバーをもらえないのはおかしい、とも。

M.I. スペインのナンバーはこれ、日本のナンバーはこれ、という風に、国ごとに自分の身分を証明する番号があるというだけのことですものね。私はフランスの番号とスペインの番号を持っていますが、何の問題もありません。状況に応じて番号を使い分けているだけです。

―スペインもフランスも含め、海外には、ありとあらゆることをIDナンバーと紐づけるシステムで長年やってきている国が山ほどある中で、例えば、日本でマイナンバー導入の計画が進められていた段階で「IDナンバー制度の歴史が長い国で、いったいどのようにシステムが機能しているのか、現地に何年か住んでを学んでこい」と、国が音頭を取って人材を送り込むというようなことはしていたのだろうかと、ふと思いました。

M.I. 表面的にではなく、ある程度がっつりとその国に入り込んで、しんどくてネガティブな体験を実際にしてはじめて、日本と比べて世界ではこれが違うんだ、これも違うんだ、そういう気付きができるようになるんですよね。

―おっしゃる通りです。そういう意味で、留学の体験というのは、とてつもなく大きな人生の糧になると思っていて、桃絵さんがおっしゃったような体験を通して、日本はこんなところが遅れているんだなとか、こうしたほうがいいよねとか、色々な気付きがあった人たちが帰っていくことで、もっともっと日本が素晴らしい国になっていくのではないか。そんな風に考えています。

M.I. 確かに、日本と比較してスペインの方が進んでいる部分はありますね。こちらでは駐車場で、自動的にナンバーを読み取ってバーが上がるじゃないですか。料金の支払い状況がナンバーに紐づけられているから、近づいただけで勝手にバーが上がる。日本では見たことがないのですが。

―あれが導入された当初は、びっくりしました。「え?まだチケットを挿入してないんだけど?出ちゃっていいの?」って。

M.I. 「こちらのこと、読まれてる?」と思ってしまうと、怖い(笑)

一般的に、スペインもフランスも、失敗を恐れないというか、失敗しても日本ほど責められないから、とりあえず入れてしまおうといった感じで、新しいことをすぐ導入するでしょう?日本は何をするにも、認証、認証、認証で、気が遠くなるようプロセスを通過させないといけない。怖がって誰も責任を取りたくない、真面目だから始める前にすべてきっちりしておかないと気が済まないというところがあって、新しいものをすぐに取り入れることができない国なんです。

スペイン人からしてみると、日本人と働くのは、活用もしないのに細かくて要らない情報ばかり要求するから、面倒くさいんですよ。そんなプロセスはすっ飛ばして、とりあえずやってみれはいいじゃないか、という人たちなので。

―会社で、双方の板挟みになって困ることはありますか?

M.I. 基本的にスペインの会社ですから、スペイン人のやり方で物事を進めています。でも、私としては、細かな情報を必要とする日本人の気持ちは分かりますし、それがいいことでもあるとも思っています。やるとなったら全部きちんと成功するように、徹底的に検証する日本人。それに対して、駄目だったら変えればいいやと考えて、パッとやってしまうスペイン人。どちらも結果的にたどり着くところは同じだと思うんですよ。

ですから、「あなた方とはやり方が違って、日本人は新しいことをするのに情報が必要なんです。面倒くさいけれど、ちょっと付き合ってあげてね」とお願いするようなスタンスで、スペイン人と仕事を進めるようにしています。

職場にて(2017年)


―桃絵さんは、会社をうまく回すための潤滑油のような存在でもあるのね。重宝されるわけです。将来的に日本に帰る可能性は?

M.I. 家族次第ですね。仕事に関しては、今更日本に帰って新たに探すという気はほとんどなくて、クビにならない限り、今の会社に骨をうずめるつもりでいます。クビになったら、その時はその時でポリネシアとか、どこか南の国に行ってしまうのもありかなと(笑)今ある家を売ってしまえば、それなりの生活が出来ると思うので。

―それはまた、桃絵さんらしい前向きな発想ですね。でも、あの素敵なお家を売ってしまうのはもったいない!

M.I. 今言ったのは、もちろん最悪のパターンで、娘ともなるべく近くにいたいですし、とりあえず、今持っているものを守りつつ定年退職までここにいて、その後は夫と一緒にどうするか考えればいいかなと。

―最後になりますが、スペインやフランスで働きたい、こちらに住んでみたいという方たちに向けて、何かメッセージをお願いします。

M.I. 今深く考えずに、やろうと思ったらやってみるのがいいと思います。しがらみができる前、もしくはしがらみが無くなった後に。自分で選んできた道であるという意味で、基本的に、人生で後悔することは何もないと思うんです。今いる地点が結果ではない、まだ未来があると思ってほしい。多少苦労はしても、亡くなる時に「充実していたな」と幸せな顔でいられるのが一番なのですから。

エンダヤのビーチで。