「30歳になるまでに人生の針路を決めるつもりで 公務員のキャリアを捨ててスペインへ」「バスクの料理学校に入学するために 結婚資金を先にもらいました」
今回インタビューに応じて下さった苅部あかりさん、仁(ひとし)さんご夫妻は、20年以上の長きにわたってサン・サバスティアンに在住し、現在は、バスク・日本食レストラン AKARIを経営されています。
筆者自身、AKARI の前身であるレストラン TXUBILLO の頃から、折に触れて苅部さんのお料理に舌鼓を打ち、満ち足りた気持ちにさせていただいております。
最先端のテクノロジーを駆使したヌーベルキュイジーヌの潮流に異を唱える苅部さん。
ビジュアル的なインパクトを狙ったテクニックが一切使われていない、昔ながらの職人芸が光るシンプルなお料理からは、高品質の食材を使って真摯に「美味しさ」を追求する苅部さんの姿勢そのものを、直球で受け取ることができます。
日本人の夫婦が異国で店を立ち上げ、地元の人たちから愛され認められるまでなるのは、並大抵なことではありません。
その裏にあるのは、コツコツとファンを増やし、顧客との信頼関係を築いていくことで、外国人でありながら地元社会に受け入れられるに至った、お二人の地道な努力です。
一念発起して日本を離れ、サン・セバスティアンに着地してから現在に至るお二人にまつわる様々なエピソードを伺い、最後には同じような志を持つ人たちに向けたアドバイスをいただきましたので、ぜひ最後までお読みください。
ースペインに来るまでのお二人の経歴をざっと教えていただけますか?
苅部あかり(以下 A.K.)私の場合、大学の専攻が美学美術史で就職が難しい分野だったので、在学中に飲食業に携わろうと決めました。専業主婦になるのは嫌でしたし、子供の時から父に「一生懸命になれるような生きがいを何か見つけなさい」言われてきた影響もあって。卒業後、色々アルバイトをして1年間は社員としても働いてから、イタリアに渡って料理学校に入学しまして、卒業までトータルで2年ぐらいトスカーナから北の地方のレストランを4軒ぐらい回って修行を積みました。
苅部仁(以下 H.K.)僕は高校時代、授業で習った歴史や1次関数に全く興味が持てなくて、卒業後すぐに消防士になりました。結局12年ほど消防署で働きましが、就職して最初の何年かは無我夢中でしたね…その頃ちょうど阪神大震災が起きて、被災地に救助に行ってるんですよ、僕。でも色々思うところがあって30歳になるまでに人生の針路を決めようと思いまして、もともと料理が好きだったから何年か修行するつもりでスペインに来ました。公務員だったのに、そのキャリアはすっぱり捨てて。
ーバスク地方のサン・セバスティアンを選んだ理由は何だったんですか?
A.K. イタリアの料理学校を卒業してから一旦は帰国したのですが、イタリアに嫁いでいた姉にちょっと助けてほしいと頼まれた関係で、また戻りました。そこでイタリア人から「スペインのバスク地方は料理が美味しいよ」という話を聞いたんですね。それで何回かサン・セバスティアンに遊びに来ているうちに、夫と知り合って。
H.K. 僕が最初に行ったのはマドリードで、そこで通っていた語学学校の先生がバスク人だったんですよ。その先生に「バスクに行ってみたら?」と言われてサン・セバスティアンまで足をのばしたところ、たまたまルイス・イリサールというバスクでも権威のあるシェフの料理学校が面接試験をやっていた。それで、受けてみたら合格したんです。
ー「縁は異なもの」ですね。お二人とも、それまでに働いて貯めたお金を切り崩しながらの生活だったということですか?
H.K. そう。貯金と、僕の場合は退職金もありました。勤続年数が12年だから大した額ではなかったんですけれども。
A.K. 私も、親から自分のお金でやっていけるなら好きにしていいと言われていましたから、バイトをして貯めたお金でやりくりしていました。ただ、その後ルイス・イリサールの料理学校に行くことになった段階で、さすがにその学費には足りなかったので、結婚資金を先にもらって払いました。だから、結婚式はしていません(笑)。
ーお二人が知り合ったのは、ルイス・イリサールの料理学校で?
A.K. いいえ。学校は2年制で、夫は1999年~2000年、私は2002~2003年に在籍していましたから、時期は重なっていません。知り合ったのは、シドレリア(バスクのサイダーハウス)。一時期私が住み込みで見習をしていたレストランを日本人の友人に紹介したことがあったのですが、その子がサン・セバスティアン在住で、お宅に泊まらせてもらっていた時にシドレリアに誘われたんです。で、一緒に行ったら、集っていた日本人の中に夫がいたんですね。2001年のことでした。
ー料理学校での思い出を聞かせてください。
A.K. とにかく当時はイタリア語しかできなかったから、言葉の面では苦労の連続でしたね。すでに卒業していた夫が在学中にやっていたということを真似して授業は全て録音していましたし、彼から借りたノートを助けに、テープを聞きながら夜中まで勉強していました。一番大変だったのは試験のとき。スペイン語で細かくレシピの説明が書けないから、ぜんぶ絵に描いて、知っている単語をちょこっと付け加えて「ここに入れる」みたいに矢印で説明して回答していました。だから私の答案用紙だけ、他の人たちより異常に枚数が多いの(笑)。
ーすごい!難しい局面をユニークな発想で乗り切ったんですね。
残念なことに最近、お二人の母校であるその料理学校は閉校してしまいましたけれど。
H.K. ルイスは亡くなってしまったし、コロナで飲食セクターが大打撃を受けて、お客さんが集まらなくなったこともあって、ある意味仕方がなかったのかもしれません。
ー最初のレストラン「TXUBILLO」を開店したいきさつを教えてください。あかりさんが料理学校に在学中からお二人で温めていたプランだったんですか?
A.K. いいえ、2003年に学生結婚したんですけれど、その時は卒業したら帰国して日本でバスク料理のレストランをやろうという話だったんです。
ーまさか、こんなに長く住むことになるとは思っていらっしゃらなかった?
H.K. そうですね、僕も4~5年修行したら日本に帰ろうと思っていました。料理学校を卒業してから、サン・セバスティアンにあるミシュランの星付きレストランで働いたりもしたんですが、いわゆるヌエバ・コシーナ・バスカ (新バスク料理)が自分の考え方と合わなくて、どうしようかなと身の振り方を考えていた時に「CEBANC(サン・セバスティアンにある私立の専門学校)で教えてみないか?」という話が来て、夕方の料理の講座を受け持つことになったんです。そこで「TXUBILLO」というレストランを経営しているオーナーと知り合った。で、学校で教えた帰りにビールで一杯やりながら話をしているうちに「レストランを貸すから、良かったら自分の店をやってみないか?」という話になって。
A.K. なんだかちょっと謎の多い人物だったし、突然の話でびっくりだったんですが、TXUBILLOは地下の物件で条件が悪かったから、私たちから高い家賃をとって、そのお金で自分は別なもっといい場所に借りて商売しようという目論見だったんですよね、今考えると。
ーそういう経緯で、せっかくのチャンスだし、サン・セバしティアンに残って、高い家賃を払ってでも自分たちの店を持とうと決心されたわけですね?
H.K. あの頃はバブル期で、確かに家賃はすごく高かったけれど、それが普通みたいな雰囲気でした。2008年のリーマンショック後も2012年ぐらいまでサン・セバスティアンは好景気が続きましたしね
A.K. それに完全な居抜きということで、改装する必要がなくて、掃除して自分たちの好みの飾りつけをちょっとするだけでよかったので。とはいえ本当に狭いバルで、しかも地下だから、どんな料理をメインにするかというところでずいぶん悩みました。
ーでもシンボル料理を生み出されて、お客さんもたくさん来てくれて。
H.K. 話を受けるか受けないか決めかねていた時に、友人のソシエダ・ガストロノミカ(美食倶楽部)に呼ばれたので、リサーチを兼ねて色々作って食べてもらったんです。そうしたら、みんな美味しい美味しいと喜んでくれて、なんだ、皆好きなら大丈夫だなって自信につながりました。ただ、当時はまだ山椒を使ったりはしてませんでしたね。段階的ににそういった風味を加えるなど、日本食の要素を取り入れていった感じです。
A.K. あんな穴蔵みたいな場所だったのに、いつもお客さんでぎゅうぎゅうになるほどまでに繁盛して嬉しかったですよ。皆さんよく来てくれたなあって。
ー以前はサン・セバスティアンの日本食レストランといえば TXUBILLO 一択でしたものね、まさに草分け的存在。
A.K. サン・セバスティアンに日本食ブームが来るよりずっと前に始めましたから。
ーところで、お二人とも労働許可証はどのようにして取得されたんですか?
H.K. 僕が料理学校を卒業する直前にちょうど「外国人正則化」という、当時は毎年のように行われていた不法滞在者向けの措置がとられたんですけれど、1年以上スペインにいることと仕事があることが証明できれば申請していいというものでした。卒業を間近に控え、あと数ヶ月で切れる学生ビザしか持っていない身でしたから、これは渡りに船と思い、僕のことを雇ってくれると言ってきたUREPELというレストランで契約書を作ってもらってすぐ申請したら、通ったんですね。そういった経緯で、比較的すんなり居住カード(労働許可証)がもらえたので非常にラッキーでした。
ー現在も「外国人正規化」の措置がとられることはあるんでしょうか?
H.K. あることはあるんですけれど、昔のように毎年というわけではなく、現在は何年かに1回みたいです。しかも通知もひっそりと官報に載せるだけだから、よほどアンテナを張っていないと気付かないで終ってしまう。
ーこまめにきちんと調べるようにしないといけませんね。あかりさんはどのようにして労働許可証を?
A.K. 私の場合、夫と出会った時点で彼がもう永住権を取得していたんですね。だから、結婚後1年間スペインにいれば居住カード(労働許可証)がもらえるということで、結婚して居住カード申請しました。ところがなかなか発行してくれない。仕方がないから、居住カードはもう申請してあるからと話をつけて、TXUBILLOがあるのと同じ地区(アンティグオ地区)にあるレストランで働かせてもらっていました。言ってしまえば不法で働いていたのですが、当時はまだそこまで厳しく取り締まられていなかったので。
そこで1年近く働いたところで、もう何年もやっていなかったのに、先ほど夫が言及した「外国人正則化」の措置が再びとられることになった。ですから、申請するときに、働いていたレストランのオーナーについてきてもらって仕事があることを証明してもらったんですね。ところが、そのレストランの外国人枠がもう埋まっていて、調理係としては申請できないということが発覚して。でも、労働許可証が取れるなら何でもいいやと思ったので皿洗い係として申請してもらいました。そういった経緯で、私にも無事に居住カード(労働許可証)が下りたんです。
ーなるほど。それで旦那様とTXUBILLOで働くことになったわけですね?
A.K. というか、TXUBILLOの話が持ち上がったのは私が居住カード(労働許可証)を取得した後だったで、とりあえず開店したら夫が従業員を雇い、私はもう少し同じ職場で働き続けるつもりつもりだったんですよ。でもいい人が見つからなかくて。だから、お世話になったレストランだったんですが、事情を話して辞めさせてもらいTXUBILLOの開店とともに夫と働き始めました。
ところが1か月たった頃、移民局から突然「1か月以内に国外退去せよ」という通告を受けたんです。労働許可証はあるのになぜ?と仰天しました。外国人を無償で助けている弁護士の方に調べてもらったら、個人事業主である夫が経営するレストランで妻の私が働くケースでは、夫婦が一緒に住んでいる場合、従業員としてでなく個人事業主にならなければいけない、という社会保障庁の法律があることが分かりました。ところが、個人事業主になるためには労働許可証を取得してから3年が経過していなければならないという、移民局の法律が別にあって、私はTXUBILLOで働き始めたことによって、その3年をすっ飛ばすという法律違反を犯して個人事業主になってしまっていたんです。
H.K. 慌てて店の顧問をしてくれている人に助けを求めたら、社会保障庁に問い合わせの電話をしてくれたのですが、そのとき電話に出たのが偶然、庁で一番偉い人だったんですよ。それでその人に状況を説明したところ、「移民局と社会保障庁の法律がぶつかり合って矛盾が生じた場合、社会保障庁の法律のほうが上位だから問題ない」ということで、結局はその人が移民局と話してくれて一発で解決したという…。
ーそれは大変な思いをされましたね!今だから笑って話せますけれど。
A.K. そうですよ、せっかく労働許可証が取れたのに、国外追放!?ってハラハラし通しでしたもの。ビザに関しては、夫の100倍ぐらい苦労していますよ、私。
ーTXUBILLOといえば、2011年の東関東大震災のあと、バスク在住の日本人たちで企画した「福島支援チャリティー昼食会」が心に残っています。お友達のソシエダ・ガストロノミカ(美食倶楽部)を貸し切りにして開催することが決まった段階で、あかりさんがものすごい集中力で、テーブルの並べ方をクロッキーに描き、料理を出す手順を微に入り細に入り決めていくお姿を拝見して、飲食業のプロというのは料理を作ることだけではなく、本当に色々な部分にまで完璧に気を配らなければならないのだなと舌を巻きました。
A.K. 当初はTXUBILLOでの開催を考えていたんですが、ソシエダ・ガストロノミカ(美食倶楽部)を使わせてもらえることになったから、アウェイでも完璧なサービスができるよう、とにかく綿密に計画を立てました。あの時は日本人よりむしろ、日本人を妻に持つバスクの旦那さんたちが頑張っている姿をみてびっくりしたというか、率先して場所の準備やらTシャツの注文やらエネルギッシュに行動してくれて、本当に感激したんですよ。ですから私は私で、今ひとつ行動が伴っていない人たちをデザート作りに参加させて巻き込むなど、やるからには全員で準備したという会にしようと頑張りました。来てくださった皆さん、福島の様子を映像で見て涙を流されていましたよね。いい会だったと思います。
H.K. なな子さんたちの演奏もよかったよね。
ーああ、浴衣姿で演奏しましたっけ。まだ小さかった長男とも一緒に弾けたので、私にとっても二つとない貴重な思い出です。
ソシエダ・ガストロノミカ(美食倶楽部)と言えば、日本でも結構知られてきているようですよね。すべて会員制で、しかも推薦制だからバスク人でも入るのが難しいソシエダがある中で、仁志さんは名門のソシエダの会員になられたと聞いて、快挙だと思いました。
A.K. 夫が会員になりたいと思っていることを知ったTXUBILLOのお客さんが、推薦してくれる会員さんを紹介してくださったんです。
H.K. 推薦には会員2人のサインが必要でした。会ってみると、2人のうちの1人が、僕が日本人なので胡散臭いと感じている様子だったんですね。ところが、僕がTXUBILLOのオーナーだと知っていた別の会員から、「お前、まさかTXUBILLOのヒトシを知らないのか!?」と聞かれたとたん、その彼が急に「もちろん知ってるとも!」と快くサインしてくれた。バスク人て、自分に知らないことがあることを決して認めない人たちでしょ?本当に知っていたかどうかは怪しいものです(笑)
ーとにかく、TXUBILLOのオーナーとして名が知られていたおかげで会員になれたわけですね。
H.K. ふと見たら、名前の欄に「HITOSHI KARUBE TXUBILLO」って書かれていたの。スペイン人には苗字が2つあるから、勝手に2つ目の姓を「TXUBILLO」にされちゃってた。本当は無いのに。
ーあはは、いいじゃないですか。
A.K. それから7か月後にめでたく会員になれました。それでもすごく早かったそうです。
ー名門のソシエダの会員に名を連ねて、もうすっかりバスクに溶け込んだと言ってもいいですね。
H.K. ソシエダでは役員にまでなって、山ほどある雑務をこなしています。バスクに溶け込んだという点では、自分では全然意識していなかったけれど、久しぶりに会ったマドリードの友人に「お前のスペイン語、バスク人が喋るスペイン語みたいになったな」って指摘されたぐらい(笑)。
ーさて、地区を変え、レストラン名も「AKARI」と変えての移転・新装オープンについて、お話を聞かせてください。
A.K. 先に言った通りTXUBILLOが地下にあって老朽化も進んでいた関係で、どうしても出ていきたかったというのがあったんです。場所の狭さ・換気の悪さから来る臭いの問題もあって、2010年あたりから移転を見据えて物件を探し始めました。はじめ、同じアンティグオ地区で何軒かオファーがあったんですけれど、こちらの人たちって、自分が失敗した分を他人に払わせるというところがあるんですよね…だから、ものすごい金額の譲渡料を要求してくるんです。もちろん賃貸料も払い続けるわけで、愛顧してくださっているお客さんもいることだし、それなら自分たちで物件を購入して、新たにお店を立ち上げた方がいいのではないかと考えるようになりました。
H.K. 結局、アンティグオ地区は値段も高いし、古くて狭いところばかりだったので違う地区で探すことにしたんですよ。で、他の物件を見に来た帰りにほぼ偶然に見つけたのがここだったんです。建物自体が新築で、角の店舗スペースが空いているのを見て「ここ、いいんじゃない?」と。
ー素敵な空間を創り出されましたね、キッチンも立派になって。バリアフリーのトイレも広々として快適です。
H.K. 建築家の設計ではもっと幅の狭いキッチンだったんですけれど、僕たちは長時間そこで働くわけですし、働く人を優先させて作るべきだと主張しました。
ー物件を買ってレストランを移転、新装開店した後でコロナ過になってしまったわけですよね。スペインではロックダウンが長く続き、大きなダメージを受けたと想像しますが、どのようなマインドセットで乗り切られました?
A.K. 可能な限り体を動かして、頭を空っぽな状態にしておくようにしていました。ただ、物件を購入した時に銀行から借り入れたお金に関しては返済の滞納だけはするまいと、その点に注力しましたね。結論から言うと、生まれつき心配性なせいで普段から貯蓄しておいたお金がある程度あったことや、お店の顧問と相談していろいろ手を打ったことで、きちんと払い続けることができて…それさえクリアできてしまえばあとはもうどうでもいいというか、とにかく何も考えないようにして乗り切ったという感じです。
H.K. 自分たちではどうもできないことだからね。
ー確かに。私も常々「平和な時こそネガティブ思考で有事に備え、いざ問題が起きてしまったらポジティブ思考を忘れるな」という姿勢を心がけています。現在、従業員は抱えていらっしゃるんですか?
A.K. いいえ、コロナ以来、平日は私たち2人で切り盛りし、週末だけ一人お手伝いの娘と皿洗いの人に来てもらっています。でも、飲食業は仕事が大変ですし、週末に働かなくてはならないので、若い人たちはなかなかやりたがらないですね。
H.K. それでも労働条件は昔に比べてかなり改善されてきています。従業員に不当な労働を強いらないよう、勤務開始時間と終了時間を書き入れて本人にサインしてもらうことが義務付けられていて、役所の監視もかなり厳しいですよ。
ー長いバスク生活で、これまでに、どんなことを感じてこられましたか?
H.K. 日本に似ているところがあるから、住みやすいと感じます。人種差別もないですし。スペインは基本的に人種に対する偏見が少ない国ですが、特にここバスク地方ではほとんどないと言っても過言ではないですね。
A.K. アジア人はみな同じと考えているような人たちから中国人呼ばわりされることぐらいはありますよ。でも、中華料理を食べるつもりで入ってくるお客さんがいると、私たちが何も言わなくても、常連のお客さんたちが「ここは日本料理を出す場所だぞ」と間違いを正してくれたり、無知であるがゆえに失礼な物言いをする人に対しては叱ってくれたりするんですよ。私たちのレストランを長年愛顧して下さっている方たちの応援と心の温かさに支えられているなあと感じる同時に、そういった地元の人たちとの結びつきをずっと大切にいていきたいなと思っています。
ーお二人が地元の方たちから受け入れられ、愛されていることが伝わってきます。
今後の展望は?
H.K. これまでずっと週休1日でやってきたので、今後は週休2日にペースダウンして、もう少しゆったりとした生活に切り替える予定です。そうしてもいい年齢になったしね。
A.K. この場所(AKARIの店舗スペース)を購入したとき「これは私たち二人の年金だね」って話をしていたんです。将来的には売却してもいいし、賃貸料をとってもいい。退職したら、色々と旅行して美味しいものを食べて回ろうかと思っています。
ー最後になりますが、例えば50代でスペインに移住したい・永住したいという方たちをお手伝いしようと思ったら、潤沢な資金があるケースを除くと、どんな仕事でも構わないからやるという心構えで来ないと厳しいというところで、「どんな仕事でも」=「ほぼほぼ飲食業」という結論に行きついてしまうのですけれど、お二人だったら、どんなアドバイスをなさいますか?
H.K. 一番の近道は、寿司の学校に行ってから来ることだよね。
ー私もそう思います。というか、それ一択かなと。だから前もって準備する必要があることを伝えていかなくてはいけないなと。準備さえきちんとすれば、決して不可能ではないので。
A.K. 準備すべきスキルは「語学」と「寿司」。
H.K. 寿司の注文さえ取れれば、語学はそこまでできなくても大丈夫なんじゃない?
ーそう、接客をしないからスペイン語が堪能でなくても関係ないという点で、「寿司職人」か「キッチンの調理係」、これしかないと思うんですよ。とにかく、雇用者側は役所に対して現地の人たちに候補者がいないことを証明しなければならないので、寿司が握れるとか和食が作れるとか、そういうスキルがないとまず許可が下りない。
A.K. それだったら、「利き酒師」なんてどうかしら?日本酒のソムリエ。
H.K. お、いいね。たとえ日本酒を置いていないレストランでも、これから置く予定ですとか理由を付けて申請すればいいわけだし。
ーたしかに「利き酒師」のアイデアは使えるかもしれません。
H.K. とにかく「寿司」でも「利き酒」でも、それで労働許可を取ってもらって3年間勤めれば、それ以降は個人事業主になれるわけだから。
ーそうなれば、自分で好きなビジネスを立ち上げられるし、もう2年頑張れば永住権ももらえる。
H.K. ただし、飲食業で労働許可証が取れたとしたら、1年間はそこの県の飲食店で働かなくてはならないという縛りはありますよ。必ずしも申請してくれた店である必要はないけれど、1年間は許可が下りた県内に留まることが義務づけられていることは知っておいた方がいい。もちろん、それ以降はスペイン全土で、好きな職種で働けるようになります。移住・永住したいのだったら、まずは資金をためること。そして、アンダルシアのどこかの田舎町とか、生活費がうんと安いところに住めば出費を抑えて節約しながら暮らせるので、そうしながら頑張るのもいいかもしれません。そういうアクションプランなら、かなり現実的なのではないでしょうか。
ーそして居住カード(労働許可証)の取得に関してきちんと情報を収集し、可能性を探って準備しておくことですね。
バスク日本料理レストラン「AKARI」
アマラ通り12番地 20006
サン・セバスティアン市(ギプスコア県)スペイン
電話番号:+34 943 21 11 38
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