「三食の中で一番朝ごはんが好きなので、今の仕事が楽しくて仕方がない」
今回インタビューさせていただいたのは、年齢が筆者の一回り下であるにもかかわらず、バスク在住歴が筆者より長い、阿部葉子さん。
知り合った当時はパティシエさんでしたが、その後スキルの幅を広げ、現在は子育てをしながらサン・セバスティアンの中心部にある4つ星ホテルの朝食係のチーフを務めていらっしゃいます。
数々の目標を達成してきたご自身について「自分は運が良かっただけ」とおっしゃる葉子さんですが、お話の内容からもわかる通り、実は「積極的に行動し続けて自分からチャンスを掴みに行く」ことができている方だからに他なりません。
大学のスペイン語学科を出て渡西し、どのようないきさつで菓子店の仕事を得たのかについてのエピソードをはじめ、葉子さんがこれまでに辿ってきた軌跡が生き生きと伝わってくる面白いお話をたくさん伺うことができましたので、ぜひ、参考にしてください。
― 葉子さんは、確か大学でスペイン語を専攻されていたんでしたよね?
阿部葉子さん(以下 Y.A.)ええ、神奈川大学のスペイン語学科でした。
― なぜスペイン語をやろうと思ったんですか?
Y.A. 高校生の頃からずっと、ホームステイや留学したいと思っていたんですけれど、野球部のマネージャーをしていたので夏休みも行く暇がなかったんです。だから「大学では外国語学科に入って絶対に留学するだ」と決めていました。ただ、スペイン語に関しては、地元の大学に進学したくて選んだ神奈川大学に、学科の選択肢として英語と中国語とスペイン語があった中で、特別にスペイン語がやりたいと思っていたわけではなかったんですよ。英語はもう勉強してきたし、中国語は何となく響きが好きになれなかったので、じゃあスペイン語にしよう、そんな感じで選んでしまいました。本当は、スペインがどこにあるかもよくわかっていなかったのに。
― ごく若いうちからそれほど留学に憧れていたということは、ご家庭の環境に要因があったのかしら?
Y.A. 父がね、若い頃バイトでアジアの国々を周るクルーズ船でコックをしていたんですよ。それと、両親が知りあったのが空港でしたし…二人ともそこで働いていたので。というわけで、なにかしら外国と縁があるエピソードが家庭の中にあったということから、影響を受けたのかもしれません。
― なんと!お父さま、興味深い経歴の持ち主だわ。お料理が得意なのは、お父さまの血ね。
Y.A. それはどうだか(笑)念願かなって、スペインを初めて訪れたのは大学2年生の時でした。3年生の夏と冬にも来たので…大学時代に合計で3回ほど短期でスペインに滞在したことになります。そうこうしているうちに4年生になって、誰もが将来の方向性を決めて就活をしているというのに、私は自分が何がやりたのかさっぱりわからなかった…だから、就活を一切せず、その代わりに一生懸命バイトをしてお金を貯めて、両親に「またスペインに行ってスペイン語を勉強したい、もう少し長く住んでみたい」と伝えて、1年間の予定でスペインに飛びました。
― では、最初は1年間だけのつもりで。
Y.A. そうです、1年間分の資金しか貯金がなかったから。3年生の冬に2週間ほど通ったサラマンカの語学学校に戻って5月から通い始め、その年の11月に旅行で初めてサン・セバスティアンを訪れました。すごく好きな作家さんの本にサン・セバスティアンで朝食をとるシーンがあって、それを読んで私もどうしても同じことをしてみたいと思っていたんです。場所は HOTEL NIZA だったのですが、念願かなって実際にそこで朝食を食べました!
― そしてサン・セバスティアンの街に恋をした…
Y.A. なんて素晴らしいところなんだと思いましたね。私は出身が横浜で、ずっと海が近くにあったので、海に面したサン・セバスティアンにすっかり魅了されました。サラマンカでの学生生活も、毎晩のように街にくり出していたから楽しかったのですが、9か月間もそれが続くと「もう十分かな、一生は続けていけないよね」と思うようになってきて。ですから、サン・セバスティアンで語学学校を探して引越しました。
その頃には、私の語学レベルもかなり上がっていたから、その語学学校でやっていたインターンシップコースを受けることにしたんですね。色々ある中から自分で専門分野を選ぶと、それに合わせて学校側でインターン生として働けるところを紹介してくれるというコースです。私が観光業・飲食店を選んだところ、学校のすぐ近くの Barrenetxe という老舗のお菓子屋さんで3か月間働けることになりました。
― 私が葉子さんと知り合った時に、 Barrenetxeで働いていますと聞いて「へえ、あんな有名な店で仕事しているなんてすごい!」と思った記憶があります。サン・セバスティアンでも指折りの広場にあって、地元っ子たちに人気のお店でしたよね…今はもう店を畳んでしまいましたけれど。労働許可証はいつ取得したんですか?
Y.A. 労働許可証については、自分でもすごくラッキーだったと思っていて、たしかインターン期間は4~6月の3か月間だったのですが、夏前でこれから人手が必要だという時に、従業員が一人病気休暇を取ったんですよ。それを耳にして、私はもうインターン期間が終わりかけていたから、雇ってもらえないか打診してみたんです。
結果的に雇ってもらえたのですが、問題は就労ビザがないことでした。切れかけていた学生ビザだけでもなんとか更新させるためにどうしよう?と焦って奔走していたら、例のサラマンカの語学学校が、私がもう1年在籍するかのような証明書を出してくれて。本当は通ってもいないのにですよ!それを持ってサラマンカの警察に行って、無事に学生ビザを更新することができました。あの語学学校には本当によくしてもらったと思っています。
― サラマンカで更新したということは、住所はどう申告したんですか?
Y.A. まだ住んでいた時に借りていたアパートの部屋に、私が引越した後に入れ替わりで入居した友達が住所を使わせてくれました。住民票もサラマンカに置いたままだったので、もともと私が住んでいた住所をそのまま記入するだけで済んだんです。不法滞在だけは避けたかったから、そこはクリアできたと。でも、学生ビザで働いていたわけだから、その点はもちろん違法でした。そうしたら、Barrenetxe のオーナーが「和菓子担当という事で、労働許可証を申請してあげる」と言ってくれたんですね。
― あの、コテコテのスペイン伝統菓子の店で和菓子ですか?(笑)
Y.A. もちろん申請のための口実で、作ったことなんか1度もありませんでした(笑)ところが、そのような方向で手続を進めていた時に、ちょうど「外国人正規化」の措置が取られて、申請をそちらに切り替えたらすんなり居住許可(労働許可)が下りたんですよ。本当に運が好かったです。
― 運も実力のうち。葉子さんがご自身の行動力で呼び寄せたものですよ! とにかく、第1回目にインタビューさせていただいた苅部さんご夫婦と同じ方法で労働許可をゲットされたんですね。でも、それ以前からBarrenetxe のオーナーが申請手続きを進めてくれていたということは、葉子さんが本当に見込まれていたということでしょう?素晴らしい。
Y.A. 自分では、あらゆる面で運に恵まれて来たと思っています。前住んでいた家も、いわゆる VPO(公的保護住宅)で、家賃がすごく安くて済みましたし。
― Barrenetxe には何年勤めたんですか?
Y.A. 3年ほど。でも働いている人たちが男性ばかりで、男性優位な雰囲気のある職場だったことが理由で辞めました。あの頃は私もまだ若くて生意気で、それなりに野望もあったから。お菓子作りが楽しくて仕方がなくて、色々やりたいことがあったのに、やらせてもらえる環境ではなかったんです。
― そうそう、私たち日本女子たちで、「ぜひ、葉子さんの作ったモンブランを商品化して!」とさんざん言っていたのに、提案を却下されたっておっしゃっていたものね。
Y.A. 昔からお菓子作りが好きではあったのですが、あくまで趣味でやっていただけだったんです。でもBarrenetxe で技術的なことを色々学んでいくうちに、もっともっと興味が湧いてきて、ありとあらゆるお菓子の本を買いあさったり、パリに行って菓子店を見て回ったり、バルセロナの見本市に行ったり、のめり込んでいきました。そして「お菓子作りで生きていきたい!」と本気で思ったんですよ。
― 居住許可(労働許可)をもらってから3年間勤めたのなら、辞めてもスペインに住み続けることに関しては法律的に問題もなかったのね?
Y.A. そうです。失業手当も出ていましたから。でもデザート専門で職を探していたこともあってか、なかなか次の勤め先が見つかりませんでした。ようやく一軒雇ってもらえたレストランで、デザート担当で入ったはずなのに、なぜか前菜作りをやらされて…それが、お菓子作りでない料理を始めたきっかけでしたね。
そのレストランには産休代替で雇われていたので、9か月で辞めざるをえず、また職探しして、サン・セバスティアンの大聖堂の近くにあるサン・マルティンのショッピングモールのカフェテリアで働き始めました。もう料理でもいけるという自信がついていましたし。別のオファーもあったのですが、なぜそのカフェテリアに決めたのかというと、その頃仲よく遊んでいる友達が何人かいて、とにかくスペインに住んでいて楽しくて仕方がなかったから、ちょっと遊びに行きたなというときにそれが許されるライフスタイルが送れるような労働条件を提示してくれたからだったんです。
― その時、何歳だったんですか?
Y.A. 28歳でした。でね、そこでまたお菓子作りを始めたんです。なぜかというと、同じオーナーが経営する隣のカフェテリアにデザートやお菓子を仕出している女性が退職することになり「よくお菓子を作っているなら、代わりにやらないか?」と打診されたから。それで、自宅でせっせと作って仕出すことを始めました。食品衛生法的には完全に違法ですけれどね!そのカフェテリア以外にも、お茶をしによく行っていた小さなお茶屋さんに私が作ったお菓子を置かせてもらえることになりました。その後は、その店がお茶の葉っぱを卸していたお店にまで一気に話が広がって、5軒ほど仕出先がある時期があったんですよ。
― 私も、そのお茶屋さんに葉子さんのお菓子を買いに行ったことがあります。綺麗にラッピングされた抹茶のクッキー。とっても美味しかったです。
Y.A. カフェテリアでの仕事は、毎日、午前中か午後のどちらかが必ず休みだったので、仕事がなくて家にいる時は、ひたすらお菓子を作るという生活を7~8年ぐらい続けていました。10年勤めて、子供…2番目の娘が生まれて辞めるまで。
― 旦那様とはどうやって知り合ったんですか?彼も料理人で、バレンシア出身でしたよね?
Y.A. 夫とは苅部さんの経営するTxubilloで知り合いました。同じバレンシア人同士という事で夫が仲良くしていたルイス・イリサール料理学校の先輩が、その頃ちょうど Txubilloで実習生として働いていたんですね。ある日、夫がその彼から「今日は自分の誕生日を祝うから、営業後においでよ」と誘われてTxubilloに出向いたら、そこにたまたま私もいたというわけです。
― Txubilloが取り持った縁だったんですね。何年のことでしたか?
Y.A. 2010年でした。もうカフェテリアで働いていたと思います。実は私ね、カフェテリアで働きながら、自分の店を持ちたいなと思って物件を探していた時期があったんです。起業の講習も2回ぐらい受けましたし。
その頃、オーダーメイドで誕生日ケーキを作って売ることもしていたんですけれど、ラテンアメリカ系のお客さんが多かったんですね。ラテンの人たちってものすごい甘党でしょう?皆さん「フィリングはコンデンスミルクにして」とか、「コーティングは砂糖たっぶりのメレンゲにして」とか、私だったら絶対に作らないようなレシピで注文してくるんです。カフェテリアの仕事と自分の好みでないお菓子を作るだけで体力を消耗して、その他のことに割ける時間も気力も全くない状態でした。だから本当に自分の作りたいお菓子だけを作りたくて店を持ちたいと思ったわけ。
でも、子供が生まれた時点で、お店を持つのはあきらめました。私たち夫婦はどちらもサン・セバスティアンの人間じゃないでしょう?だから、すぐ近くに頼れる親とか親戚が全くいない。そんな状況で、産休もとれない個人事業主になるのは不可能だと気付いたんです。そんなわけで、2人目の子供が生まれて、ずっとシフトが午前中だけという仕事を探し始めました。
― 今はどこでお仕事されているの?
Y.A. Narru で働いています。
― 一時期一世を風靡した、あの Narruですか?
Y.A. そう。実は、この仕事が見つかったのも天が味方をしてくれたというか、色々なところで「シフトが午前中だけのホテルの朝食の仕事を探している」という風に触れ回っていたら、Narruが入っているホテルで働いている夫の同僚が、朝食担当を求人しているのを知って、私…というか夫のことを思い出して教えてくれたんです。それを聞いてすぐに面接に行ったんですよ。サンドイッチばかり作っているところから、いきなり4つ星ホテルのレストランですから、かなりドキドキしましたけれど…すぐ雇ってもらえることが決まったので、法律で定められている15日間の猶予を持ってカフェテリアに辞める旨を伝えました。ところが、カフェを辞めてNarruで働き始めた10日後にコロナでロックダウンになってしまったんです。
― ええ!?それはまた、何という悪いタイミング。
Y.A. 飲食店という飲食店が休業に追い込まれる中、私はNarruに一番最後に入ったスタッフだったので、これは無理だ、辞めさせられると思いました。「あーあ、なんで10年間勤めていたカフェテリアを辞めちゃったんだろう… 」と後悔しましたね。それが2020年の3月。
5月ごろからテラスを皮切りに、色々な店で漸次営業が再開されていったのですが、家で悶々と待っていても一向に呼び出しがかからない。SNSでNarruが営業を再開!といった投稿をを目にするたびに、胸が締め付けられる思いでした。確かその頃でしたよね、Narruが一世を風靡したのは。コロナのピークが去って、飲食店もテラスだったら開業していいことになった時点で、店舗前の歩道を端から端まで占拠して大々的に営業を再開したから。結局、最終的に私が呼ばれたのは7月の頭でした。
― 辞めさせられることも無く…よかったわね。
Y.A. 職に復帰してすぐに、チーフだった女性が妊娠して休暇を取ったんです。ロックダウンでみんな自宅にこもっていたから…コロナの後、出生率がすごく上がりましたよね?(笑)それで、2番手で入った私が急にチーフに抜擢されました。
― 4つ星ホテルの朝食担当のチーフに。
Y.A. とは言っても、お給料は他の人たちと変わらないんですけれどね。結局、産休後に仕事に復帰した前チーフは、赤ちゃんの世話で夜に十分睡眠がとれないという理由で他のセクションに行ってしまったので、現在でも私がチーフを務めています。もう退職までNarruで働いてもいいかな、なんて。
― 働きやすい職場なんですね?
Y.A. コロナの時の従業員対応が素晴らしかったですね。あの時は、「みんな大変なんだから、文句言うな」みたいな雰囲気があって、契約では30時間なのに50時間働かせるといったような、従業員に無理をさせる店が多くありました。当時、旧市街地のバルにいた夫もかなり時間超過で働いていましたし。でもNarruでは、契約で決められた時間外で働かされることが全くなかったんです。下手に残業していると、「早く帰れ」と怒られたぐらい。
もちろん、大変な部分もありますよ。朝は6時に出勤ですし、ハイシーズンが終わると従業員の数が減らされるので、その分を私がカバーしなくてはならない。でも、それはどの店でも同じなので…とにかく、午前中だけというシフトが絶対に変わらないという点で、すごく満足しています。それが先方との最初からの約束だったから。私、三食の中で一番朝ごはんが好きなので、今の仕事が嬉しくて楽しくて仕方がないんです。
― 葉子さんて、ご自身にいつもきちんとした夢があって、その時々で夢が変化していっても、すべて実現させていますよね。
Y.A. 自分でもそう思うんですよ、あまり苦労してないなって。
― そうではなくて、知らず知らずのうちに、欲しいものを手に入れる努力をきちんとしているからではないかしら。一番初めにお会いした時、まだお若かったと思うのだけれど、この娘は周囲とは何か違うなって、お顔つきから感じましたもの。
Y.A. 欲を言えば、週末を娘たちと…家族と一緒に過ごしたいので、月~金で働きたいですね。それが次の目標かな。さすがに実現不可能だと思いますけれど(笑)。
― お嬢さんたちとの会話はスペイン語で?それとも日本語で?
Y.A. 私自身、もう日本語が出てこないことが多いので、ほぼスペイン語で会話しています。
― ちゃんと日本語で話していらっしゃるじゃないですか!
Y.A. でも、単語によって、スペイン語ならぱっと出てくるのに「日本語で何だっけ?」って、思い出せないことが結構あるでしょう?
― 確かにありますね。
Y.A. 娘たちに日本語で話しかけても、理解はできているのですが、返答は絶対にスペイン語。日本語を教えようか悩んでいた時期もありましたし、日本のDVDなども見せていたんですが、だんだん理解に余計な労力を使うのが面倒になってきたんでしょうね、ある日、下の娘に「もう日本語で見るのは嫌!」と言われて、もう無理だなと。それだけは失敗したと悔やんでいます。まだ間に合うかしら?
― インタビュー開始前に、お嬢さんがギターを習い始めたから、葉子さんもウクレレを練習したいとおっしゃっていましたよね?だったら、お稽古は一緒にすると決めて、その時間だけは日本語で話すことを習慣づけるとかでもいいのではないかしら。まだ十分間に合うと思いますよ。
Y.A. 多分、娘たち二人とも、将来日本に住むことは無いと思うんです。でも、日本のおじいちゃん、おばあちゃんと喋れないというのがね…昨年(2022年)の年末から今年のお正月にかけて日本で過ごしたのですが、最初は全く話が通じず、母は携帯電話でGoogle 翻訳の助けを借りながら意思疎通を図っていました。私がいなくても何とか会話ができるようになるまでに、2週間ほどかかりましたね。それを見て、やはり、娘たちにちゃんと日本語を教えておくべきだったと身に染みて思いました。
― スペインと日本の二つの国にルーツがあるんですものね。お二人とも、もう少し大人になって、その事実をもっと深く理解するようになれば、日本語に興味が湧いてくるかもしれませんよ。でも、葉子さんご自身の中に、将来的に日本に帰るという選択肢はないのでしょう?
Y.A. それが、何年か前にはあったんですよ。実は夫と結婚した理由というのが、二人で日本に住む予定があったからなんです。2013年~2014年に、ちょうど日本でバスクがブームになったじゃないですか。旅行雑誌でも取り上げらていましたし、おしゃれな雑誌もバスク一色みたいな感じだったでしょう?私たち、ちょうどその頃に結婚しました。というのも、私の旦那として行けば、彼も日本で仕事ができるから。日本に行って結婚式を挙げて、実際に地元の 鎌倉、逗子、葉山…様々な物件を見て回ったところで、バスクブームでもあるし「よし、店を出してみよう」って、二人で盛り上がってこちらに帰って来たんですよね。
その頃、夫はAlameda(オンダリビアの1つ星レストラン)で働いていたのですが、ある日曜日、私が車で夫を迎えに行った時に「ちょっと散歩しようか」ということになり、菜々子さんがお住まいのイルンにあるシドレリア(バスク地方のサイダーハウス)の辺りに車を止めて、山の中を滝の方までぶらぶら登っていったんです。
― わ、イルンが田舎町だということがバレてしまう(笑)そうそう、あのシドレリアからちょうど山が始まる感じだものね。
Y.A. 1時間ほど山を歩き回った後、その日はシドレリアでご飯を食べて帰路につきました。その時にふと、「なんて豊かなライフスタイルなんだろう」と思ったんですね。仕事帰りに車で15分もかからないところで山歩きをして、美味しいご飯を食べて家に帰って来る…こんな生活、日本ではありえない。日本の通勤電車で揺られていた自分を思い出しました。
元々、日本でお店を開くというのは夫のアイデアで、私はそれほど乗り気ではなかったんですよ。でも、私は日本から出て海外に住んだことで、日本の長所と短所、海外の長所と短所が、すごくよく分かるようになった。ですから、それと同じ経験を夫にもしてもらいと思って、「じゃあ行こうか」という気にはなっていたんです。でも、あの日、山で散歩をして帰ってきた体験が、私たちのその考えを変えてしまった…家と職場を電車で行ったり来たりの日本の暮らしとどちらを選択するのかと問われたら、やはりここの生活を選ぶよね…ということで夫と意見が一致し、日本に行くのをやめました。
― そんな時期があったんですか!たしかに、スペインの暮らしが長くなればなるほど、日本の優れた部分が見えてくるというのはおっしゃる通りです。でも、私も気が付いたらスペインに30年以上、バスクだけでも18年ほど住んでいる。スペインに来てから、あちこち引越しを重ねてきましたが、なんだかんだ愚痴を言いながらも、こんなに長くバスクに居るのは、やはり住みやすいからなんでしょうね。
Y.A. 住みやすいですよ。すでに家も購入してしまったし、私はもう日本には帰らないと思います。
購入した家のことなんですが、これも実に運よくて(笑)。借りていた家をそのまま購入できたんです。前の家同様VPO(公的保護住宅)で、娘たちの学校はすぐ隣ですし、私たち夫婦と同年代の近隣の友人たちと家族みたいなグループ(クアドリージャ)ができ上っていて、一緒にキャンプに行ったり、親の誰かが不在の時には代わりに子供を迎えに行ったり行ってもらったり、互いに助け合いながら楽しくやっています。住み慣れた場所に留まることができて、本当によかったと思っています。
― この国は、ほかのヨーロッパの国に比べて平均所得は低いけれど「クオリティ・オブ・ライフ」が抜群に高いと常々思うのですが、今のお話から、まさにそれが伝わってきました。最後になりますが、先輩としてスペインに留学したい、または移住したいという人たちに、何かメッセージをお願いします。
Y.A. やはり、手に職があれば有利だと思いますね。その時々の流行りを見極めてそれに合わせる感じでスキルを身に付ける…今だったら、お寿司かなあ。
私ね、色々と流行を先取りしていたところがあったんですよ。たとえばブログも、まだほんの一握りの人しかやっていないような頃から書いていたんですね。「ブログ読みました!」とわざわざ訪ねて来てくれる人がいたりして、驚いた経験もしています。それから、カップケーキが大流行する前から、フォンダンケーキを作って売っていましたし…
― そうそう、私も下の息子の誕生日に葉子さんにフォンダンケーキをオーダーして、作っていただいたことがありました。
Y.A. ほかにも、流行に便乗する形で本当に色々なことをやってきましたよ。日本にいる友人と組んで、ネットでバスクリネンと栗のかごを売っていた時期もありました。フランスバスクには、素敵なバスクリネンがたくさんあるので、大量に買い付けて、栗のかご と一緒に大きな包みで郵便局から送って、友人に売ってもらう…今考えるとこれも違法だったのよね。
― 利益は出たんですか?
Y.A. 最初のうちは出ていました。結構たくさん、しかも高額で売れたので。でも、長くは続かなくて在庫を抱える羽目に陥ったという(笑)
手に職を付けるという話に戻ると、お寿司ではない日本食、日本人が行きたいと思うような定食屋さんなんかいいと思いますけれど。でも資金が必要ですよね…
― そう。逆に資金さえあれば、確実にビザは出ます。
Y.A. スペインにいる日本人の自分だからこそできること、自分にしかできないことを見つけられたら強みになるのではないかと思います。この間バルセロナに行ったのですが、小さな定食屋さんとかラーメン屋さんとか、日本人が経営する隠れ家的な店が、探すと結構あるんですよ。誰か、そういう店をサン・セバスティアンに開いてくれないかな。
― 数年後には、葉子さんが開いているかもしれませんよ!
Y.A. 夫にはこぢんまりしたレストランを開くという夢があるみたいですが、私はもう現状維持でいいとも思っていて。昔から、仕事は仕事、8時間働いたらそこでお終い、それ以外はすべて自分のために時間を使いたいというタイプで、仕事が命ではないんです。下の娘が小学校に上がったことで子育てが一段落して、今は自分に使える時間は、ずっと編み物をしています。今日来ているセーターも自分で編みました。次はミシンの使い方も覚えようかなと。
― 葉子さんが次にチャレンジするお仕事のジャンルが見えてきました(笑)
Y.A. 他人と違うことがしたい、他人が持っていないものを持ちたいという欲求が強いんですよ。
― きっと、葉子さんのそのパーソナリティが、異国の地で一つ一つ欲しいものを手に入れてきた強運を呼び寄せているのでしょう。今後、ますますのご活躍を期待しています。
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